第28回 縦孔と探検と生命維持(桜井誠人)

JAXAの桜井誠人と申します.私は生命維持技術を研究としており,近い将来、月の縦孔が月面基地へと展開してゆくことを期待しています.

月の縦孔の良いところは、まず行く場所が決まっているところです。そうでないとどこでも行けるような準備をしなくてはならず。圧倒的なオーバースペックというか物理的に不可能なことに挑戦し続けなければいけません。目標自体が難しくても目標が固定されていれば時間の経過とともに情報と技術が蓄積し、解決法も練られていつか乗り越えられる時が来ます。

未踏へ挑戦した探検家も長い時間をかけて目標を達成しています。アムンゼンとスコットが南極点を目指したときと同時に日本人の白瀬矗(のぶ)が南極大陸に到着しています。白瀬は11歳の時に北極の話を聞き、『酒、たばこ、お茶、お湯を飲まない、寒中でも火にあたらない』という戒めを自らに果たし18歳でそれらができるようになり50歳で当初の目的地である北極を変更し南極に到達しました。南極に大和雪原(やまとゆきはら)と日本語の地名を残しました(但し領有権を放棄かつ海上であった)。月面にも日本人が発見した地名が残ってほしいと思います。

第一次南極越冬隊長の西堀栄三郎記念「探検の殿堂」が滋賀県東近江市にあります。「ふるさと創生」の一環として建設された「探検の殿堂」にはマイナス30℃のブリザード体験ができる施設があり、濡らしたハンカチを回転させるとハンカチが棒のように凍る体験ができます。西堀栄三郎の生涯は波乱万丈で地球の果てへの地理的探検は、南極から世界の屋根、ヒマラヤの高峰にまで足跡を残しており、探検界のリーダーでした。そればかりか、京都大学や東芝の科学者・技術者として真空管などの研究開発製造にも携わり、品質管理、原子力、海洋と広範囲に活躍しました.西堀は1957年に第一次南極探検隊の越冬隊長を務め、大量の機材が流されるなど危機的な状況を乗り越え全員無事越冬観測を完了しました。後進の指導にも大きな影響を与えた西堀の言葉に「新しいことをやろうと決心する前に、こまごまと調査するほど、やめておいたほうがいいという結果が出る。石橋を叩いて安全を確認してから決心しようと思ったら、おそらく永久に石橋は渡れまい。やると決めて、どうしたらできるのかを調査せよ。」と有ります。月の縦孔探査にも当てはまるのでしょうか。

大航海時代に、アフリカ大陸にはプレスター・ジョンと言われた想像上のキリスト教の教王の存在が信じられており、その探求のために多くの探検家が挑戦したようです。物質的な利益のみならず、大義や精神的利益がある事業こそ、人間は大きな挑戦と飛躍を記すことができるのでしょう。探検から開発そして定住することによって新しい土地の所有が決まってゆきます。アルゼンチンでは南極を自国の領土とするために既に定住し1978年アルゼンチンの管理するエスペランサ基地で初めての出産以来、子孫を増やし始めているようです。南極や宇宙ではもはや国家の所有権の主張はできないと思いますが、やはり定住し既成事実を積み重ねることは必要だと思います。

春山ホールに定住するべく空気再生・水再生を端緒として宇宙農業へとつながる完全循環型の生命維持技術を目指しており、ミニ地球と呼べるような施設を目指しています。人間は一人一日2.5リットルほどの飲み水と600リットルほどの酸素を必要とします。青森県六ケ所村の環境科学技術研究所では、食料生産を含めた完全循環系の生命維持技術実証が行われ一人前の食料生産に65平方メートルほどの農作面積が必要であることが実証されました。立って半畳寝て一畳という言葉がありますが、人ひとりを養う食料を育成するのにどれだけの面積が必要か実証した成果は大変貴重であると思います。地上で使われている日本得意の環境技術は世界の最先端であると思いますが、宇宙での技術に関しては日本の技術は海外技術を追っている状況です。第一次南極探検隊が最初に決めた場所が昭和基地となっています。春山ホールが動かない限り技術の蓄積を重ね近い将来ミニ地球が縦孔に現れると思います。春山ホールは探検、開発、定住いずれのフェーズにも我々に課題と利点を与えてくれて、昭和基地のような場所になることを期待しています。

(桜井誠人)